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​≪江戸太神楽の歴史≫

 『太神楽』と書いて「だいかぐら」と読みます。

太神楽の起源は平安時代までさかのぼり、神社に伝わる「散楽」という曲芸がその源と言われています。元祖は尾州熱田(現在の愛知県)とする説と伊勢(現在の三重県)とする説があります。

 太神楽が人々の人気を集めたのは江戸時代になってからでした。そのころは伊勢神宮が大変信仰を集めていました。一生に一度、直接足を運んでお参りする「お伊勢参り」が庶民の強い願望、流行となりました。そこで、伊勢神宮、また同じように信仰を集めていた熱田神宮の神官の子弟が獅子頭を持って各地に出張し、御礼を配って廻りました。神様の代わり、直接参拝する代わり、ということでしょうか、当時は「代神楽」と呼ばれていました。

 

 熱田派の太神楽は、寛文4年(1664)に熱田神宮の許可を得て江戸へ赴き「悪魔祓い」と称して大小の屋敷を軒別に歩いてまわり、同年3月に帰国しました。寛文9年(1669)に江戸城吹上の庭で将軍家の上覧に供し、それから江戸へ出て行くことが恒例となり、やがて移り住むようになりました。関東にうつってからは、江戸の人々の好みに合わせて、獅子舞はよりユーモラスになり、また当初は余興であった曲芸の部分が次第に人気を集めてきて、神社に仕える芸能から、人々に愛される芸能として少しづつ変わっていきました。

 

 幕末になると、江戸の町には急に寄席がたくさんつくられ、そこに登場する芸人が足りなくなってしまいました。そこで声を掛けられたのが、それまで町をまわるのが仕事だった太神楽。寄席の芸としては、特に曲芸が喜ばれました。「どんつく」(正式には『神楽諷雲井の曲毬(かぐらうたくもいのきょくまり)』という、今でも歌舞伎で上演される演目の中に、当時の太神楽の人気がうかがえます。また太夫(芸を演じる人)と目黒師(芸を助ける人)とのかけ合いの面白さも、人気を呼びました。その時以来、太神楽の曲芸は寄席でも見られるようになり、様々な演芸の中の一つとして、寄席の高座にも欠かせないものになっています。また、日本ならではのエンターテイメントとして、海外での上演や、海外からのお客様への“おもてなし”パフォーマンスとして、イベントやお祭り、学校や様々な施設での鑑賞会など、年齢・性別を問わず楽しめる芸能として人気を博しています。

 

 丸一仙翁社中の代表“丸一仙翁”は、“江戸太神楽”の十三代家元として、国内外での太神楽上演活動と共に、後進の育成にも力を入れています。丸一仙翁の詳しい経歴に関しては、下記の『江戸太神楽 十三代家元 “丸一仙翁”』ページをご覧下さい。

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